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「笑う男」辛口レビュー記事

韓国のミュージカル雑誌「ザ・ミュージカル」に掲載された<笑う男>のレビュー記事をご紹介しますね。

コチラの記事は、かなり辛口です。
<笑う男>は、舞台美術と音楽についてはかなり好評を受けている作品ですが、ストーリーは弱いと批判されていて、レビューアーによって好みがかなり分かれているように思います。この記事はストーリーについてかなりキツイ意見が書かれていて、多分、一番の辛口記事ではないでしょうか?^^

でも、ま、何といっても「初演」なので。。。
過度に期待はせず、今後の発展を期待して初演を観ておく、くらいの気持ちで観に行くと楽しく満足できるかもしれません。実際に観た感想としては、それなりに面白かったです~~♪^^

個人的には、これを東宝がどう料理するのか、楽しみですねー。
舞台美術はそっくりそのまま持ってくるらしいのですが、まさか演出は変えますよね~~?^^;


元記事はこちら → ザミュージカル8


ミュージカル&カルチャー [レビュー] <笑う男>, 「笑う男」は笑えるだろうか? [No.179]

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規模の機会費用

いつからかEMKミュージカルカンパニーの新作の前に付く修飾語があるのだが、それは「世界初演」である。 ライセンス作品ではない創作作品を披露しながら使っている言葉であるが、考えてみれば本当にとんでもない表現である。 初演される作品の前に国内だ世界だという修飾語はまだ意味を成さない空虚な言葉に過ぎないからである。 作品の開始は国内市場だが作品の目標は海外市場であることを明確に現わす意欲に満ちた決意ということはもちろん分かる。 問題はこの派手さが虚勢ではないことを見せてくれるに値する明らかな技が作品中に見えないというところにある。 世界市場に通じるためには作品自体の魅力と完成度が最も重要であろうのに、「最初の観客」に提示された検証の根拠が作品の面貌よりは俳優のスター性である時、この公演は輸出用であると言うよりは内需用ではないかという考えが浮かぶのである。

製作の規模だけで見るならば、このような言葉は悔しいかも知れない。 新しく披露した創作ミュージカル<笑う男>もやはり前作<マタハリ>に劣らず途方もない視覚的規模を誇るからである。 単にEMKミュージカルカンパニーだけではなく、国内制作会社で作った輸出用大型ミュージカルで最も目立つ出来ばえは断然舞台である。 海外市場を狙った大型創作ミュージカルの舞台は大部分雄大でその上には口があんぐり開くようなスペクタクルと写真におさめたい絵が整然と並ぶ。 しかしこのような途方もない規模の舞台が単に視覚的に派手で素敵な写真として消費されるのにとどまったなら、この舞台を競争力ある良い舞台と言うことができるだろうか? 同じワナに陥った作品がもう幾つもある。

<笑う男>も同じである。 難破して沈む船を描き出した最初の場面を除いて、この作品が舞台を満たす原理は空間の想像力ではなく説明的再現に近い。 場面が変わる度に新しく登場する舞台セットもそうであるが、通りすぎる場面一つまでも一回使われる装置で説明するこの誠実さ(?)は効率性とは距離が遠い。 経済的な理由で? それはむしろ副次的な問題だ。 舞台の効率性とは空間の想像力に変わりないところ、大型創作ミュージカルで本当に惜しいのは舞台に対する投資の規模は大きくなる一方、空間を満たす芸術的想像力は減っているという点である。 ただすべてを作ってすべて舞台上に上げる方式である。 再現の技術は驚くほど発展するが空間を扱う想像の反転はますます捜しにくい。 製作の規模が大きくなるほど、結果が不確実な想像の機会費用よりは結果が確かな技術の機会費用が大きくなるのは当然だが、新しい想像がない所に世界市場に向かう跳躍の足場は敷かれにくい。 この派手な舞台が魅力的でない理由である。

問題は叙事だ

これは単に舞台セットだけの問題だろうか。 視覚的にはもっともらしい出来ばえだが、この作品が全く魅力的でない核心的な理由はまさにストーリーにある。 表面的にまず目立つのは話を圧縮する方式の問題である。 原作であるビクトル・ユゴーの小説は舞台という限定された視空間にジャンルを転換するのに容易なテキストではない。 歴史劇と名付けても構わないくらい具体的な時代性を持っており、その時代の脈絡で生きて行く幾多の人間群像の描写が精密であり、事件の「何」より心の「なぜ」に注目するという面では心理劇ながらも、人物たちが階級と身分など構造的矛盾を代弁するという点ではソーシャルドラマの面貌を持っているからである。 一言で言って膨大きわまりない。 この話をどうやって二、三時間余りの制限された空間に圧縮することができるだろうか。 ユゴーの小説を基にした代表成功作 <レ・ミゼラブル>や <ノートルダム・ド・パリ>が選択した圧縮の言語はまさに音楽である。 ソングスルーの音楽的形式を先立たせるとか場面中心の構成で舞台上のパフォーマンスを育てるなど、音楽と公演の要素を極大化することで人物の感情には深さと質感を加える一方、膨大な叙事はエピソード形式で分節させてから繋ぐ機能的戦略を発揮した。

<笑う男>もやはり音楽が担当しなければならない役目を十分に意識したようである。 ミュージカルナンバーの曲数が43個でそれなりにソングスルーミュージカルと物量面で大きな差を見せないのを見れば、音楽として叙事を導いていくのだという意志が充満していることはわかる。 しかし物量だけで密度を持つことはできないもの。 叙情的な情感がトレードマークであるフランク・ワイルドホーンの音楽は、確かに美しい旋律があるにもかかわらず、劇的状況を刻印させるにはドラマティックな力が弱い。 劇的展開で主導的役割をするよりは状況と感情にひたすら付いて行くとでも言おうか。 叙事的な持分が大きくなくセリフと感情を敷衍するのにとどまる彼の音楽で、ドラマの厚い質感は捜しにくい。 高音で構成された歌が特に多く、一曲が終わる度に集められる感情的エネルギーはかなり大きいが、そのエネルギー自体は劇的なものではない。 感情的エネルギーの快感は解消されるところにあり、劇的なエネルギーの快感は蓄積されるところにある。 ワイルドホーンの音楽はこの部分を混同している。 音楽が繰り返されるほどに旋律の既視感と劇的正体感が感じられる理由がここにある。 彼の美しい音楽が劇中で個性を持つことができない理由だろう。 音楽の役割を育てようとする意欲は音量のボリュームを育てるところだけにとどまってしまった。

舞台や音楽で明らかになった「方式の問題」は結局ストーリーを圧縮する能力の不在を現わしたことになる。 演出家であり作家ロバート・ヨハンスンは膨大な原作を圧縮する方式で果敢にもドラマの形式を選択したが、ドラマを作る腕前はずさんなだけである。 このような人物たちでどのように原作の意味を盛り出すことができるだろうか。 一貫性が無く、ただ単純になった人物は行動を主導できず(身分を取り戻すのがグウィンプレンの幸せな権利だったのか? 彼の覚醒に理由を付けて欲しい!)、内面が消えた人物は典型の中に剥製にされた上に(ジョシアナはこのように男好きな女だったか? この女の覚醒にも理由を付けて欲しい!)、説明さえされない人物は劇を混乱させる(デイビッドとグウィンプレンの縺れた関係? ペドロの野望?)。
このような人物たちでは身分と階級の矛盾という社会的意味はもちろん洗練という服を着た退屈な悪と下品な生を着た高尚な線の中で、何が人間のまことの価値であり美しさなのかを訊ねる象徴的意味を現わすのは不可能である。 しかしこのようなものはすべて付随的な問題である。 本当に深刻な問題は、初めて見た時まったく何の話なのか分からないという点である。 一昨日原作を読んだ人でなければ、舞台上でぶつぶつ言って通り過ぎる幾多の言葉の意味(コムプラチコス! ワッペンテイク!)と、すかすかに穴が開いた筋書の連結(アン女王のラップ!)と、誇張されたイメージの中で揮発されてしまった主題意識に見当をつけることさえできない。 ミュージカルだけ見ようとすると、グウィンプレンがなぜ捕まって行くのか、なぜ目覚めるのか、なぜ帰って来るのかもわからないし、最後の場面で何が起きたのか、それが何を意味するのか、理解されない場面と人物が溢れている。 このような無能な叙事に話を解釈する観点を要求することはできない。 解析がない古典に何の魅力があるだろうか。

創作の優先順位

魅力を失った作品で魅力を期待する部分は俳優であるはず。 口紅を少し過度に塗ったような「コムプラチコス」扮装は無残さを想起させなければならない劇の脈絡とは正反対に、俳優の顔を妨害しない。 しかしこれが作品を救うようなことはない。 最初にこの作品の人物たちは誠実に演じる俳優(特にパク・カンヒョン!)を引き立たせるほど魅力的なキャラクターとして作られなかったからである。 俳優は役者ではなくイメージとして揮発されてしまう(特に女優たち!)。 「世界初演」の作品を作るために進む道はまだ遠く見える。 前作<マタハリ>が嵌ったワナに<笑う男>も避けて通ることができなかった。 もしかすると方向性の問題のためかも知れない。 世界市場を狙うためには規則の完成度になったとしても変則の魅力になったとしても、この作品が到達しようとする地点と方向が明確でなければならない。 そんな時、初演はたとえ未熟で欠陥が多いとしても、開始点として意味を持つことができる。 そしてもしそんな意志があったなら、誰でも共感するに値する作品を作るために底の抜けた入れ物に水を注ぐように費用を支払わなければならない。 華やかな舞台や音楽にかける物的費用より、テキストを作り出すための時間の費用と探索の費用を喜んで支払わなければならないのだ。 世界市場に通じるに値する名作の普遍性はこのような費用の上でのみ作られる。 その費用なしに世界市場を夢見たら、それはただ真夏の夜の夢に過ぎない。 熱帯夜のため、夢どころか眠れないかもしれない。
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